自分ってなにもん?

どうも、もりーです。

前回記事の更新をTwitterで告知したところ、

過去最大級のいいねをいただいて当惑しています。

でも、ご反応いただけると嬉しいものですね。

単純に告知した時間がよかっただけでしょうけど…

普段みんなが寝静まったような時間に告知してましたから。

それって告知じゃねーじゃん、という話。

今後も不定期ではありますが、更新していきますので、

どうぞよろしくお願いいたします。

さてさて、ではそろそろ今回のお話に行きましょうか。

自分ってだあれ?

誰しも通る道だとは思いますが、

「自分とは一体…?」という問いについて

考えてみようかなと思います。

デカルトの名前が出てこなくても、

「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉は

出てくるんじゃないかなと思います。

どういうこっちゃというと、

思考する自我の存在が自分の存在だよということです。

平たく言えば、「今日何しようか?」とか

「どこ行こうか?」とか「だれと会おうか?」とかって

考えてるとき、自分がいるんだよということです。

他にも別の記事で取り上げましたが、プラトンの言う

「人間とは社会的動物だ」という言葉から

社会とつながっているときに自分を見出すことができる、

という考え方もできますね。

(あくまでも社会的地位、社会的役割としての自分ですが)

家族という社会の中での自分とか、

学校、会社という社会の中での自分とか。

西洋哲学史に基づいて考えるなら、こんな感じですね。

探すまでもないもの

Twitterで見かけて面白かったのが、

「自分探しって何?自分そこにおるやん!?」って

いうニュアンスのツイートです。

確かに。物理的存在としてそこにおるもんね。

哲学的に見てもおるんかな?じゃあ試すか。

「自分」って単語を分解しましょう。

①みずからわかるもの、こと

②おのずからわかるもの、こと

ですよね。①はデカルト的な感覚ですね。

思考する自分の思考を思考すると、自分の存在がわかる。

(さすがに難しい。こんがらがるぅー…)

(一人称としての自分を理解するイメージ)

②だとプラトン的感覚です。

あたりを見渡すことで、自分の存在がわかる。

(世界の中の自分を自然と理解するイメージ)

…哲学的にもおったね。自分探し、いらんね。

意識ときっかけは必要

とりあえず自分探しというものの不必要性が

みえたところですが、どうでしょうか?

まだ自分探し、します?

私からは自分探しではなく、自分への問いかけを

ふとした瞬間でいいからしてみたら?とご提案します。

「自分は一体何者なのだろうか?」

この問いを意識しておくこと。

そのうえでささいなきっかけを思考に組み込むこと。

これで自分が見えてきますよ。

すぐにわかるものではないですけどね。

気づくまでに長い時間がかかったり、

わかったと思っていたものを改めることになったり。

いろいろあると思います。

でもそんないろいろが、部分的に「自分」だったり、

全体的に「自分」だったりするんですよね。

あなたの考える「自分」とは?

この機会に考えてみてはいかがでしょうか?

 

余談ですが、関西方面だと二人称としても

自分って使うんですよね。

二人称としての「自分」を考え出すともっと面白いかも。

 

今回はこのあたりで。

ほんじゃあね、もりーでした。

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